2014年4月30日水曜日

相手の気持ち

今日は哲学の授業があり、久しぶりに文京区に。
ある方の言葉をきっかけに、仕事をしていた頃のことを思い出しました。

仕事を辞めようと決断してから、一年かけてやめる準備をさせていただいたこと。
やめてから一年間、なんだかんだ理由をつけて、元職場に行き続けたこと。

いろんな準備をしたつもりだったけれど、みんなみんな私目線でしかなかったかな、と思えたのです。
残って働くみんなのことは、考えていたつもりで考えていなかったのかもと、初めて実感したというか、反省したというか、向きあったのでした。

職場の人が「今まで日々とどんな仕事をしていたのか書いていって」と言ってくれたから少し書いて残せたけれど、
心のどこかで「きっとわからないことは相談してくれる」「毎週なんらかのかたちで顔を見せれば言いやすいのではないか」などと思っていたのだと思います。
それこそおごりで、
実は誰も私には相談してはいけないと思っていたし、話すのも憚れていたのではないかと。
話せなかったのはそれまでの私の関係づくりに問題があったんだなと。
わたしが、みんなのことを理解していなかったんだなと、思ったのでした。
顔を出されることが、戸惑う原因だったのかも知れない。

残る方々に必要だったのは、
できる限り詳しく書いたマニュアルだったのかも知れない。
人間関係でなく、具体的な呈示だったのかも知れない。
はたまた、違うアプローチだったのかも知れない。

というか、もしかしたらこれが一線を引くと言うことかも知れない。
一線を引けなかったのは私のほうだったのかも知れない。

相手の身になると言うことは、こういう風に考えることなんだな、なんとなく実感できました。
私中心な考えを捨てていたら、もっと違うものを残せたかも知れません。

仕事から手を引いたことは何も後悔していません。
私には向いていなかった。それは永くやったことでたどり着いた結論でした。
そして、当時私の気持ちを受けとめて下さった方々には、感謝しております。

辞め方というのは、とても難しいのだと思いました。
関係というものは、相手を理解して初めて活きるものなのかも知れません。それが私にはできなかったんだなと。
そこのところの力量が全くなかったのだと感じました。

おごりはすべて捨てないと。
何も見えてこないもの。

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