2015年10月13日火曜日

人と暮らす

若い時は自分の家族を作りたくて、恋ばかりしていた。
私のそんな頃を見てきた友人は、恋をすれば?と時々言う。

でもよく考えてみると、自分の家族をつくりたい、パートナーが欲しい、という気持ちの方がいつも強かった気がしている。
誰かに心がときめく前に、前提があったみたい。
もちろん、恋はしていたけれども。

私の日常生活は圧倒的にまず介助の方といることが多い。
介助を仕事にして、私の生活を支えに訪れてくださる人たちと、日々一緒にいる。

長くお付き合いしてくださる介助者の中には、家族のようにちかしく思ってくださる方もいらっしゃるし、仕事の関係だけではない部分もたくさんある。

介助を日々受けながら生活を続けてきて、最近になって、
「ああ、これが『人と暮らす』ということかも知れない」
と思った瞬間があった。

私は体が中途半端に動かないので、生活のほとんどを来てくれる人に補っていただく。
体が動かないということは、頭の中で生活を考えているということ。自分では実行できないので、そこはその日一緒にいる人の出番となる。

頭の中では物事はスイスイ浮かぶし、自分の世界でしかないから、いざ人に頼んでみると思いもしないところでずれてしまう。

例えば銀杏の甘皮を向く手間は計り知れないことなんだと作業を見ていて思ったり、
にんにくのかわを向くと手が赤くなるということを、やってくださった方の手を見て初めてわかったり。

人にわかりやすく伝えていくことが未だにうまく体得できていない自分がいる。

ほんの少し前まで、障害がない人は、苦手とか特手だとか言ってもひと通りなんでもできると思っていた。
障害があって身の回りのことができない、の「できない」と、障害がないけれど苦手なことでできないの「できない」は、できないの意味が違うと思っていた。

ても実はそうではなくて、
介助の仕事できてくださる方々は、自分のできることを私にしてくれようとしているのだな、と思うようになった。

確かに私は障害があって一人では何にもできないけれど、来てくださる方も得手不得手を持つ方々で、そこを私はわからなかったんだなと。

ひとつひとつの日々の生活は、その日一緒にいる人との共同作業。もちろん自分の生活をしていくためにいろいろ伝えていくけれど、うまくことが運ばないことには理由があるみたいだとわかるようになった。

そこに今私がわからなければいけないことがあるのかも知れない、と。
もっとこじつければ、その経験をするためにこの体を今回いただいて生きているんだと。
何もかも自分の思う通りに生きていきたいのであれば、この体を選ばなくても良かったはず。自分で全てやればなにも葛藤は生まれないのだし。

うまくことが運ぶことだけを求めず、今日来てくださった人との時間を余すところなく味わう。感情も、考えたことも、全て。
その人は私の生活を補助してくださるために来てくださっているのだから、多分私が日々できることはそういうことなのかも知れない。

そう思うと、同居人がいなくても日々考えていくことはたくさんあって、一人暮らしではない生活を感じている。

人の暮らしを理解して支えるって、自分の価値観が強ければ強いほど難しいのではないかと時々思う。私は我が強いから、障害のない体をいただいていたとしても、今の性格では介助の仕事ができたかわからない。

それを思うと、いま思うような生活ができていることがとても愛おしい。

一人暮らしではないこの生活に、とても感謝をしている。
そして面白くて仕方ない。

これが恋をしない理由ではないのだけれど、わざわざ時間を作って会いに来てくれる友人たちとのひとときももらえて、私のキャパは満足しているみたいだ。


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 しばらくぶりの更新です。 9年間住ませていただいた古い家と別れて、春から新しい家での生活が始まりました。 小さな一軒家。築50数年だそうですが、全リフォームしてある家です。 南側には大きなひさしがあり、玄関からは出入りできませんが、キッチン側の大きな窓が地面から低い位置にたまた...