介助については、とても身近なせいもあって、何度もこのブログで書いてきた。
少しくどいようにも感じるけれど、最近感じていることを書いてみようと思う。
体が動かなくても、介助を受けて意志どおりに生活できるならそれが自立と、その考えに励まされて自立生活に踏み切った。
いい介助を受けるには、そのやり方を障がい者が伝えていくことが大切なこと、いい介助者はあなたが育てるのよ、そんなふうに習って、そうなんだと信じて暮らしてきた。
そして障害者団体のお仕事を辞めた頃から、少しずつ考えが変わってきた。
介助を通しての人間関係も、他の人間関係と同様、学び合う、育ち合う関係。どちらかがどちらかを育てたりとか、そういうことではなくて、お互いが気づき合うことなんだ。
書いてみるとすごくあたりまえ。そんなあたりまえのことが私にはわからなかったみたいだ。
私は介助という方法を通して自己実現してきたから、介助者には指示どおり動いてもらいたいという気持ちが強かった。まず話を聞いて理解して欲しかったし、私の生活のペースで、たとえいろんなあらが目についたとしても、まずは合わせて欲しかった。だから指示どおりに生活が流れないと、伝え方が悪かったか、聞き取ってもらえなかったか、とひどく悩んだ。または介助で関わる方と気まずい関係になった。
家庭や、施設での介助でなく、地域で世帯として介助を受けながら生活を始めるとき、そうやって自分の意志で動く時間は絶対必要だと思う。そうしないと、誰かの指示を待つ受け身的な生活から、自分で自分のことを決めて自分で責任をもつという生活に移行することは難しい。自分の体を通して経験できることが極端に少ない分、本当に難しいんだと思う。
もちろんこれは人による。すぐに精神的に自立する方々も多いかも知れない。
私は無理だったというだけ。
最近まで、私はその考えのもと、生活を続けてきた。
ある日、ふと思った。
確かに、介助の人の手を通して私はなんでもできるし、私がやったことといいたいけれど
梅干しの仕込みも、
手前味噌の仕込みも、
かぼちゃのパイも、
キムチ鍋も、
そして家をきれいにすることや、
私が毎日清潔にいられること、
ねずみ追い出し作戦、
その他諸々のこと
家に来てくれる人がいなかったら、
なんにも実現しないことばかり。
つまり私は、実は何もできない。
誰かが介助という考えに賛同して、この内容を仕事として来て下さらなければ、
毎日毎日来て下さらなければ、この生活自体は成り立たない。
理念は理念。現実は現実。
この基本の基本を、忘れていなかっただろうかと、思ったのだった。
私の今の生活はすべて、私の生活を支えて下さる人との共同作業なんだと思う。
今の私にできることは 介助者がいなくなったらどうしようかと不安がることではなくて、一日一日のいろんな出来事を体験し、ベストを尽くすことなんだと思う。
さまざまな方が自分の時間をかいじょの仕事にあてて、私のもとに来てくれる。そのこと自体が、実は貴重なことなんだと思う。
大げさだろうか。違和感を感じるだろうか。
でもそう考えたとき、私は自分の意志をすべて通すことよりも、その人とのその日の関係性を大事にしようとやっと思えるようになった。もちろんその日必要なことは伝えて、やっていただくけれど、前よりもすこし心に余裕が生まれたように思う。
私の体は比較的動くし、障がいの特性もある、それに私は今遊び人なので、出来るのかも知れない。もしかしたらこの内容を読んで、そんなうまくはいかないと思う方もいらっしゃるかも知れない。
それでも、私は私の考えのもとでやってみようと思う。幸い、介助者を派遣して下さる組織のやり方は、水に合う。幸せなことだと思う。
さまざまな方が介助に関わってくれる。そのことを恵まれていることとして、生活していきながら、より豊かな関係をつくらせていただこうと思っている。