2017年6月5日月曜日

心の中の感情   

どんなに何度も乗り越えたと思っても、同じようなことが起こったりすることがある。

たとえば、どうしても受け入れられない部分を見せる人との出会い。
避けられないトラブル(例えば、話を聞いてもらえなかったとか、自分が正当だと思ったのにわかってもらえなかったとか。)
ある出来事が心のスイッチを押して、その瞬間その出来事から離れられなくなり、その出来事を引き起こしたと思われる人が謝ってくれるか、考えを正してくれるまで、怒りはえんえんと収まらない。

そんなことがあるのは、私だけだろうか。

例えば、私の場合だと、昔よく怒っていたシーンは駅が多かった。
駅で思うように対応されず、待たされたり乗車する位置を決められたり、行き先をホーム全体にマイクでインフォメーションされたり。
電車の車内で名前と住所を聞かれたり、何度も利用する駅でいつも障害者手帳を確認されたり。路線によっては電話でいつ乗るか前もって連絡となければならなかったり。

最近はこのようなことはほとんど感じなくなった。そして、このようなことが起きてもほとんど怒らなくなった。たまにムッとすることはあっても、そこに怒りがあって、私はまだこの部分でおこるんだということを自覚して終わる。日常生活でいろんなことに怒る自分はまだいて、時々疲れる部分はあるけれど。東京という場所に住んでいるせいもあるのかもしれないけれど、いい環境に暮らしていると思っている。

だからと言って、日常の怒りが完全に整理されたとは言いがたく、もう理解したと思っても、再びそのシーンが来た時、明らかに機嫌が悪くなっている。
最近も、ある地下鉄の駅でそうだった。

その人は、「この前も注意したのに」という憤りをぶつけてくる。
確かに、たしかに。その人は、ルールに則っている。

その人と会話をすると、私が若い頃、どんなに正義感ぶって 、「差別をなくす」ために怒り散らし、その怒りが目の前の人を困惑させて、あるいは意気消沈させていたかがとてもよくわかる。
相手を理解しようとせず、正しさをただ主張するコミュニケーションは、目の前の人を疲れさせ、気力を奪うだけなんだと、この歳になって人の怒りを受けとめてみて思う。


人が人を見る目線はそうは変わらない。
わかってもらおうという思いは、残念ながら相手には伝わらない。
思えは自分も、相手の心情をわかろうとはしていないから。自分の論理の中では、相手のことを理解している気になっているけれど。

自分の価値観の中で怒っていても、何も世界は変わらない。自分の怒りが増して、体を蝕んでいくだけ。

そもそも、なんでこんなに怒り続けるのか、本当は何に怒っているのか、本当に怒っているのは自分なのか。

そこに向き合って見ると、意外なものが見えてきたりする。



好きな歌詞 ーートモエ学園ーー

福山さんの歌は、好きな歌もあるけれど、あまりハマらないのですが、この歌はとても好きです。 「窓際のトットちゃん」の本も好きだったけれど、トットちゃんの世界を別にしても、とても心にしみる詩です。 子供目線が少し入るから、優しくわかりやすい詩になっています。 いい先生や、友...